利己主義

「何、利己主義? けしからん。何を云うのだ。君は、さっきも度々云った通り、問題は正義という事にあるのだ。正義の命ずる処……」「いや僕はあなたが利己主義者というわけじゃないんです。ただ僕はあなたが余りに森木のみしか考えて居ないという事を云いたいのです。衣川さん。Aが名乗り出るとします。問題はA一人ではありませんよ。無論相手の夫人も犠牲にならねばなりません。しかしあなたはいうでしょう、自業自得だと。なるほど、あなたのような冷やかな法律家には、そう思われるでしょう。よろしい、僕は敢《あえ》て反対はしますまい。けれどここにもっと大きな犠牲がある事を忘れてはいけませんよ。この事件の最大の犠牲者は何も知らずに平和に生活をしているその夫人の夫その人です。あなたはそれも自業自得だと云いますか。無論、妻をとられるような夫が馬鹿だと云ってしまえばそれまでです。しかしあなたは敢てそれを云いますか。そう云い切る事は恐ろしくありませんか。衣川さん。森木国松一人を救うために、三人の人が犠牲になるのです。一方は生命、一方は生命或はそれ以上のものをすてようという場合です。僕は法律家ではありませんから一人の生命と三人の生命とを比べて算術をするような事はしません。ただ事実を云うだけです。僕から云えば少くも夫だけは自業自得だと云えないような気がするのです。もしそれならば森木国松だって自業自得だといえないことはありませんからね。僕にはこの問題は恐ろしすぎるのです」 目をつぶって何か考えに耽《ふけ》りつつ衣川が云う。「お互いに考えの相違は仕方がないとして、それならば僕ははっきりときき度い。君はA氏又は君自身が訴え出る事は全然不可能だというのかね」「だから……だから其の点に就いて僕は迷って居るのです」「清川、そんなら僕がもう一つきく。そんな不可能な事ならば何故君は僕の処へやって来たんだ。一体何の為にそんな事を云いに来たのだ。いっそはじめから黙って居てくれた方がどんなに僕は気が楽だったか知れないじゃないか」 衣川の言葉はむしろ怨ずるものの如くひびく。「だから僕はあとで後悔しやしないかと云ったんです。然し何故僕が今日ここへ来たかその問に答えましょう。Aは最近になって事実を打明けたのです。僕は驚きました。そうしてどうしようかと思い悩んだのです。処が今日あなたがあの被告事件につき出廷するという事をききました。それで僕は早速法廷に行って始終のようすをきいて居たのです。僕はあなたの熱意に感激しました。罪なき人を救うためにあなたは全力を注いで居られる。あなたのやって居ることは正しい。尊敬すべきことです。ただその時僕は思った。あなたはほんとうに森木国松の無罪を確信して居るのかどうか、という事を。こう思った時、僕はどんなにかして、あなたに真相を告げたい。そうして少しでも今以上の確信と勇気とを与えたい、と決心したのです。法律家でない僕には、真相を語るだけでも語らないよりはましだ、としか考えられなかったのです。今あなたが云われるように、そんならいっそ何も云わない方がいいとは思えません。と同時に、真相を語る事が、直にそれを立証しなければならない事だとも思いません。Aの話をした事は、しないよりいい筈です。Aの話をしたからAを法廷に引張り出さなければならぬとは思いません」「…………」

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